仏教を学ぶということ

仏教を学ぶということ

仏道修行とは何か? あるいは坐禅とは何か?

言葉で言えば、「今、ここ、これ」に目覚めること、が答えだ。

比叡山の修行に千日回峰行というものがあるが、私たちは、千日どころか万日、人生八十年とすると三十万日、人生という回峰行を修行するのである。毎日、今、ここ、これを死ぬまで修行するのである。私たちは、行者なのである。千日回峰行者も時に、道を誤って、崖に落ちるかもしれない。猪に襲われたりもするそうだ。行者たる私達も、時に酒に溺れてしまうかもしれない。

例えば、狸に化かされて、畑にある肥だめに入っているというのに、自分では「いい湯だな。最高」と悪臭ぷんぷんの態で自己満足に浸りながら周囲から呆れられたりするのかもしれない。時にはそれもいいではないか。長い人生修行である。ただし修行である。山あり谷ありである。ボーっとしていたり、居眠りしていたり、白日夢にふけっていたりしたら、道から外れて転落死などになりかねない。あまりに気持ちよいお風呂に入っていたら、実は肥溜めだと言うのに、身も心も腐りきって、そのお風呂で溺れ死ぬということもあるかもしれない。

目覚め、目覚めながら、この道を歩んで、この道を仏道として歩んでいく。死ぬ迄、歩んでいく。飯を喰らう、茶を飲む、風呂に入る、お手洗いに行く、全てを仏道として歩んでいく。日常生活をそのまま修行生活、すなわち、坐禅、修行、悟りの生々しい現実の表現として生活する。インド人のバラモンがヒマラヤの見えるガンジス河のほとりで瞑想、苦行するのならば、日本人の私達は、茶を飲み、飯を喰らい、出して、修行するのである。大修行し続けるのである。「インド人もびっくり」の大修行なのである。

そういう修行を皆さまにお勧めしたいのである。日常生活がそのままで仏道修行、そういう道を皆さまと友に研鑽していきたいと思うのである。それが私の務めだと思う。身近なところで死が現実感をもって考えられるようになった今、「不生不滅」という般若心経の言葉に、この心身をかけたいと切実に思う。生死を超越したいと本気に思うのである。

「不生不滅とは」という問いへの答えは、「今、ここ、これ」ということだ。これを全身で工夫することが、修行だと思う。

月並みの日常生活を仏道修行として、大修行していく。 今、ここ、を如何に生きるべきか、皆さまと共に考え、行じていきたいと思う次第である。