ニセモノ禅の生ザトリ

ニセモノ禅の生ザトリのすすめ

 長福寺で勧める禅は、「ニセモノ禅の生ザトリ」です。言うならば凡夫禅です。ここで思いつくままに、「ニセモノ禅の生ザトリ」、凡夫禅の特長などを述べてみます。

これを読んで、「ニセモノ禅の生ザトリ」に興味を持った人は、ぜひ長福寺で坐禅をしてみてください。

1、俗が好き、しかし聖も好きという人のためのものである。

2、矛盾を受け入れること。聖なる大ボラを吹いても小なる俗人たる自分を自覚できる人。「ワカッチャイルケドやめられない……人間だもの」という姿勢が望ましい。

3、十重禁戒、第一不殺生戒……第五不酒悪戒……第十不謗三宝戒を仏に誓約する。これは、現代風に言えば仏との契約である。しかし人間だもの、日本人だもの、契約は破ってしまうのである。これはイケないのである。例えば、酒を飲んだらいけないのである。ああ、それなのにグデングデンに酔っ払うのである。反省するのである。真剣に反省するのである。ワカッチャイルケドやめられないと真剣に反省するのである。その後は……その後は、そのうちなんとかなるだろう。これが凡夫禅である。

4、自己を道場とし、家庭を道場とし、自己を捨てない、家庭を捨てない。父母を大切にする。父母を大切にするという基本は、「身体八膚(プ)は父母に受く云々」。このいのちをいただいたことに感謝することを、これまた誓約する。

5、家庭における所依の教典として父母恩重経を学ぶ。

6、禅語に父母未生以前の本来の自己という公案がある。常識的に考えれば父母が生まれる以前に「私」があるはずもないのだが、あえてその父母未生以前の「私」に思いを寄せることで、この世界の根源を悟っていくための公案である。父母を越えたいのちを大親様と呼ぶ。大親様は時に父性の姿を見せ、時に母性の姿を見せる。いずれにせよそれは、私達の思慮分別の及ばないところだけれど、ああそれなのに、限りない安らぎを覚えるところ。アブラカタブラ、九九八十二、謎、それに、どーんと身をまかせる。矛盾に満ちたこの身を思慮分別の及ばないところに身をまかせる。

7、凡夫禅の具体的行として坐禅する、お経を読む(声を出す)、腹で息する。これを習慣化させる。「二〇〇一年宇宙の旅」に出てくる謎の物体を、ここでは、アブラカタブラ、あるいは、九九八十二と名づけてみよう。アブラカタブラ、九九八十二に触れると変わるのである。変化するのである。化けるのである。坐禅はアブラカタブラ、九九八十二である。お経は、アブラカタブラ、九九八十二である。あなたは、アブラカタブラ、九九八十二である。これであなたは化けるのである。

8、これは野狐禅である。故にいい師に出会うべきである。人間に出会うべきである。しかし出会えなければ、書を通して師と出会うべきである。くれぐれも、ニセモノ禅、凡夫禅、生ザトリという自覚は、忘れないでくださいね。「この世では救われない」ぐらいの自覚は必要である。その覚悟の上で、それだからこそアブラカタブラ、九九八十二に、全身をまかせるのである。